真田十勇士の実在と幸村生存説と家康死亡説【第一弾】 [歴史の雑談]
真田十勇士は、一般てきには、創作で架空の人物とされています。その一方『実在
のモデルが実在位している』『真田十勇士ゆかりの地とされる場所がs、いくつも
存在している』など一部は、又全てが、本当だった可能性も、完全には否定するこ
とは、出来ません。私個人的には、実在していると信じたいです。この話は、非常
に長くなるので、何回かに分けて書せて頂きます。
知恵と日々の鍛錬によって常人以上の能力を備えた人々は存在し、実際に真田家に
仕え、さらには恩賞に預かった忍者もいたとの記録が存在しています。又討ち死に
したとされる【幸村の首が3つ】あったこれは、如何ゆうことかしかも、幸村は実
際には討ち死にしておらず、秀頼と共に薩摩あるいは琉球に逃れたという幸村生存
説まで存在しています。さらにその後秋田で酒を売っていたとかいう話までありま
す。又千利休が眠る大阪・堺の南宗寺には、なんと家康の墓もある。夏の陣で家康
は「真田特攻」で槍の深手を負って死亡し、後の家康は影武者だったと言う家康死 亡説もあります。非常にロマンチックで私自身非常に興味深い事です。
始めに真田十勇士から調べてみました。江戸元禄期の歴史小説『真田三代記』に八
勇士(真田忍者)が登場。後の真田十勇士は、猿飛佐助・霧隠才蔵・根津甚八・由
利鎌助・筧十蔵・三好清海入道・三好伊三入道・望月六郎・海野六郎・穴山小助。
明治末期の少年向けの読み物『立川文庫』でこの顔ぶれに決定した。それぞれにモ
デルがいると言われています。
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◆◆◆ 真田十勇士 ◆◆◆
●● 猿飛佐助(さるとび さすけ)●●
真田十勇士の中でもリーダー格であり、甲賀流の忍者だが、甲賀の里ではな
く、戸澤白雲斎とは信濃の鳥居峠の近くの角間渓谷(真田忍者の修行場だっ
たとの伝説がある)で三年間の間、修行をしていた一般的話しです。
◆●◆
●◆● 実在説では、三雲佐助、猿飛仁助の子孫、伊賀忍者の上月佐助。の名前が
◆●◆
あげられます。そして、司馬遼太郎は,、『淡海故録』および『茗渓事蹟』
を出典に、「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春が猿飛佐助である」
(三雲佐助賢春は六角氏の重臣である三雲成持の甥にあたる)と実在説を支
持しています。また、伊賀下忍・下柘植ノ木猿の本名が上月佐助である事
から、「上月佐助こそが猿飛佐助である」との実在説もある。これについ
ては、大坂夏の陣後、徳川家康の命を受けたと思われる服部半蔵宗家が、
本拠地の三重県柘植野を徹底的に殲滅・残党狩りをしており、「大坂夏の
陣で当時の忍術(≒現在の諜報・特殊部隊)を駆使したことへの報復・恐
怖の傍証」とも取れる。昭和には上野国(今の群馬県)で猿飛佐助の墓が
見つかったという情報があったそうですが、真偽の程は不明です…。
●● 霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)●●
猿飛佐助と、同様真田十勇士のなかでは、リーダー格でもあり 非常に人気
のある人物で、真田十勇士の枠を超えて、彼単一の作品も多数ある。伊賀忍
者の頭領・百地三太夫の弟子とされている。
◆●◆
●◆● 実在説では、幸村の部下の忍者霧隠鹿右衛門という説があります。あまり
◆●◆
資料も少なく、大坂落城後、幸村に従い幸村の子の大助と協力し、豊臣秀
頼脱出に成功する。
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●● 三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)
出羽国亀田の領主とあり、関ヶ原の乱で、徳川秀忠の率いる大軍が、中山道
を西上する途中、信州の上田城を攻めたときから、真田幸村の部下として大
活躍した。関ヶ原の敗戦後、幸村に従って、弟とともに紀州九度山へ落ちて
いる。幸村の大坂入城にも兄弟で従っている。大坂冬・夏の陣にも他の勇士
らとともに徳川の大軍と奮戦し、壮絶な戦死を遂げる。18貫もの樫の棒を
軽々と振り回し、山賊を退治したり、剣士と渡り合ったりして縦横無尽の活
躍をしている。坊主頭の大男で、力は強いが、どこか抜けたところに、愛嬌
があって、好ましい豪傑である。弁慶の戦国版といったタイプである。
◆●◆
●◆● 実在説は、モデルは出羽亀田の領主とも,亀田城主三好六郎の嫡子ともい
◆●◆
われ,幸村の部下として活躍したという。
三好 政康(みよし まさやす)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好
三人衆の1人。一般には政康と呼ばれているが本当の名前は初め右衛門大政
勝(後述)、続いて下野守政生(まさなり)という。後に出家し、釣竿斎
宗渭(ちょうかんさい そうい)豊臣氏に仕え、大坂夏の陣において88歳と
いう高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せい
かい)という人物が宗渭の後身という俗説がある。
●● 三好伊三入道(みよし いさにゅうどう)
破戒僧の兄弟。 真田幸村と同じ豊臣方に味方し、大阪の陣で命を落とした
三好清海とその弟・政勝がモデルとされる
関ヶ原の戦い直前の上田合戦にも兄とともに活躍し、幸村の九度山行きにも
お供し、大坂冬・夏の陣にも徳川勢と勇敢に戦っている。大坂落城の時、兄
は腹を切って、自分の首を刀で掻き落として見せたが、弟の伊三入道のほう
は、腹を切りながら、辞世の狂歌を高らかに詠じたと『真田三代記』にある
◆●◆
●◆● 政康の弟の三好政勝(法名・為三)が伊三入道のモデルとされる
◆●◆
三好 政康(みよし まさやす)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好
三人衆の1人。一般には政康と呼ばれているが本当の名前は初め右衛門大
輔政勝(後述)、続いて下野守政生(まさなり)という。後に出家し、釣
竿斎宗渭(ちょうかんさい そうい)続柄に関しては諸説あり『三好別記』
によると「三好之長の弟・勝時の子・政長の子」とあり、『狩野文書』の
元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によると、政長の子・一任
斎為三に宛てた手紙の書出しに「舎兄下野守跡職并自分当知行事」と記さ
れ下野守(宗渭)は一任斎の兄と記されている。また『芥川系図』では「政
長の子、右衛門大夫政勝の弟」とする。なお頼澄の子とする場合、兄は三
箇城主三好政成とされる。
非常に長くなり申し訳ない次第です。今回は、この辺ので一度終わらせて頂きます
誠に申し訳ありません。次回この続き、書かせていただきます。最後まで読んでい
ただきありがとうございました。
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のモデルが実在位している』『真田十勇士ゆかりの地とされる場所がs、いくつも
存在している』など一部は、又全てが、本当だった可能性も、完全には否定するこ
とは、出来ません。私個人的には、実在していると信じたいです。この話は、非常
に長くなるので、何回かに分けて書せて頂きます。
知恵と日々の鍛錬によって常人以上の能力を備えた人々は存在し、実際に真田家に
仕え、さらには恩賞に預かった忍者もいたとの記録が存在しています。又討ち死に
したとされる【幸村の首が3つ】あったこれは、如何ゆうことかしかも、幸村は実
際には討ち死にしておらず、秀頼と共に薩摩あるいは琉球に逃れたという幸村生存
説まで存在しています。さらにその後秋田で酒を売っていたとかいう話までありま
す。又千利休が眠る大阪・堺の南宗寺には、なんと家康の墓もある。夏の陣で家康
は「真田特攻」で槍の深手を負って死亡し、後の家康は影武者だったと言う家康死 亡説もあります。非常にロマンチックで私自身非常に興味深い事です。
始めに真田十勇士から調べてみました。江戸元禄期の歴史小説『真田三代記』に八
勇士(真田忍者)が登場。後の真田十勇士は、猿飛佐助・霧隠才蔵・根津甚八・由
利鎌助・筧十蔵・三好清海入道・三好伊三入道・望月六郎・海野六郎・穴山小助。
明治末期の少年向けの読み物『立川文庫』でこの顔ぶれに決定した。それぞれにモ
デルがいると言われています。
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◆◆◆ 真田十勇士 ◆◆◆
●● 猿飛佐助(さるとび さすけ)●●
真田十勇士の中でもリーダー格であり、甲賀流の忍者だが、甲賀の里ではな
く、戸澤白雲斎とは信濃の鳥居峠の近くの角間渓谷(真田忍者の修行場だっ
たとの伝説がある)で三年間の間、修行をしていた一般的話しです。
◆●◆
●◆● 実在説では、三雲佐助、猿飛仁助の子孫、伊賀忍者の上月佐助。の名前が
◆●◆
あげられます。そして、司馬遼太郎は,、『淡海故録』および『茗渓事蹟』
を出典に、「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春が猿飛佐助である」
(三雲佐助賢春は六角氏の重臣である三雲成持の甥にあたる)と実在説を支
持しています。また、伊賀下忍・下柘植ノ木猿の本名が上月佐助である事
から、「上月佐助こそが猿飛佐助である」との実在説もある。これについ
ては、大坂夏の陣後、徳川家康の命を受けたと思われる服部半蔵宗家が、
本拠地の三重県柘植野を徹底的に殲滅・残党狩りをしており、「大坂夏の
陣で当時の忍術(≒現在の諜報・特殊部隊)を駆使したことへの報復・恐
怖の傍証」とも取れる。昭和には上野国(今の群馬県)で猿飛佐助の墓が
見つかったという情報があったそうですが、真偽の程は不明です…。
●● 霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)●●
猿飛佐助と、同様真田十勇士のなかでは、リーダー格でもあり 非常に人気
のある人物で、真田十勇士の枠を超えて、彼単一の作品も多数ある。伊賀忍
者の頭領・百地三太夫の弟子とされている。
◆●◆
●◆● 実在説では、幸村の部下の忍者霧隠鹿右衛門という説があります。あまり
◆●◆
資料も少なく、大坂落城後、幸村に従い幸村の子の大助と協力し、豊臣秀
頼脱出に成功する。
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●● 三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)
出羽国亀田の領主とあり、関ヶ原の乱で、徳川秀忠の率いる大軍が、中山道
を西上する途中、信州の上田城を攻めたときから、真田幸村の部下として大
活躍した。関ヶ原の敗戦後、幸村に従って、弟とともに紀州九度山へ落ちて
いる。幸村の大坂入城にも兄弟で従っている。大坂冬・夏の陣にも他の勇士
らとともに徳川の大軍と奮戦し、壮絶な戦死を遂げる。18貫もの樫の棒を
軽々と振り回し、山賊を退治したり、剣士と渡り合ったりして縦横無尽の活
躍をしている。坊主頭の大男で、力は強いが、どこか抜けたところに、愛嬌
があって、好ましい豪傑である。弁慶の戦国版といったタイプである。
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●◆● 実在説は、モデルは出羽亀田の領主とも,亀田城主三好六郎の嫡子ともい
◆●◆
われ,幸村の部下として活躍したという。
三好 政康(みよし まさやす)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好
三人衆の1人。一般には政康と呼ばれているが本当の名前は初め右衛門大政
勝(後述)、続いて下野守政生(まさなり)という。後に出家し、釣竿斎
宗渭(ちょうかんさい そうい)豊臣氏に仕え、大坂夏の陣において88歳と
いう高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せい
かい)という人物が宗渭の後身という俗説がある。
●● 三好伊三入道(みよし いさにゅうどう)
破戒僧の兄弟。 真田幸村と同じ豊臣方に味方し、大阪の陣で命を落とした
三好清海とその弟・政勝がモデルとされる
関ヶ原の戦い直前の上田合戦にも兄とともに活躍し、幸村の九度山行きにも
お供し、大坂冬・夏の陣にも徳川勢と勇敢に戦っている。大坂落城の時、兄
は腹を切って、自分の首を刀で掻き落として見せたが、弟の伊三入道のほう
は、腹を切りながら、辞世の狂歌を高らかに詠じたと『真田三代記』にある
◆●◆
●◆● 政康の弟の三好政勝(法名・為三)が伊三入道のモデルとされる
◆●◆
三好 政康(みよし まさやす)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好
三人衆の1人。一般には政康と呼ばれているが本当の名前は初め右衛門大
輔政勝(後述)、続いて下野守政生(まさなり)という。後に出家し、釣
竿斎宗渭(ちょうかんさい そうい)続柄に関しては諸説あり『三好別記』
によると「三好之長の弟・勝時の子・政長の子」とあり、『狩野文書』の
元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によると、政長の子・一任
斎為三に宛てた手紙の書出しに「舎兄下野守跡職并自分当知行事」と記さ
れ下野守(宗渭)は一任斎の兄と記されている。また『芥川系図』では「政
長の子、右衛門大夫政勝の弟」とする。なお頼澄の子とする場合、兄は三
箇城主三好政成とされる。
非常に長くなり申し訳ない次第です。今回は、この辺ので一度終わらせて頂きます
誠に申し訳ありません。次回この続き、書かせていただきます。最後まで読んでい
ただきありがとうございました。
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